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リーゼンの歴史

第一章 開催への動き

はじめに

第3回 プログラム

戦争の傷跡が随所に残り、国民の誰もが傷心に沈み、物資の窮乏に喘いでいた時、八方尾根の麓・細野には村の先達によって将来への大きな夢がふくらんでいた。それは疎開中の福岡孝行を中心に、八方尾根開発計画であった。既製のものではなく、官製のものでもない、村人自身の手によって運営される、ロー カルな大回転競技会を開催し、立派な条件を備えた八方尾根を世に出そうということであった。オーストリ-で行われている、自由に参加できるダウンヒルレース・カンダハー競技のような権威あるローカル大会を開催したいというのが夢であった。八方の長大な尾根にふさわしい、リーゼン(巨大)スラローム大会の開催であった。

細野には既に、登山やスキーの先覚者による刺激があり、村人にはスキーへの理解が深められ ていたので、難しい諸問題も次第に解決され開催実現へ次第に近づいていくことができた。

白馬スキーの黎明

大谷定雄が手ほどきを受け福岡孝行が師事した笹川速雄

鋭峰白馬岳と秀麗唐松岳を項点に山麓へ広がる尾根を持つ白馬村は、雪も多く格好のスキー地である。中でも八方尾根は、 その規模、雪質などの条件は日本屈指のもので絶好のスキー場として評価され、目覚ましい活況である。

この活況は、リーゼンスラローム大会誕生を契機に発展を遂げてきたといってもよく、その誕生は過去の貴重な実績の積み重ねが生んだものであるといえる。明治44年(1911)高田へ初めてスキーが導入されてから約10年を経て、大正8年(1919)細野の大谷定雄は妙高山を登った折、燕温泉の笹川速雄からスキーの手ほどきを受け、将来の登山にスキーが必要であることを説かれた。以後、 白馬村には次々とスキーの導入の歴史がある。

大正9年に慶応大学の大島亮吉が杓子岳を登り、翌大正10年には富山師範の内山数雄と燕温泉の 笹川速雄が糸魚川から白馬岳へ登項したあと大雪渓滑降の壮挙があった。 大正13年(1924)になると京大教授・高橋健治が白馬岳へ登るなど白馬館にスキー客が泊まるようになった。白馬館の松沢貞逸は飯山中学の藤沢璋三教諭を招いて蕨平で講習会を開き、細野から大谷定雄、丸山信忠らが参加した。昭和3年には「細野山岳スキー倶楽部」が生まれ黒菱小屋を建設する などの事業を始めた。間もなく「雪友会」も組織され、両者の協力によってスキーの興隆が導かれた。 その後戦争に突入し、スキーヤーの姿は無くなるが、終戦を迎えて、スキー愛好家は、八方の雪を求めて集まってきた。村人の温い人情に迎えられ、また銀シャリ(白米)が食べられるとあって細野の評判は全国へ浸透していった。終戦前後には都会からの疎開の人達が相当数住むようにもなった。

大会誕生

第1回大会の表彰式(現 望翠荘住宅付近)

滑降スキー大会の開催を提唱して八方尾根開発を勧めたのは、昭和18年(1943)細野に疎開していたスキー研究家でドイツ語学者福岡孝行である。福岡は中学時代、燕温泉の笹川速雄にスキーを学び、同じ指導を受けていた大谷定雄を紹介され、度々八方尾根で滑り、また東京帝国大学在学中に製作した映画『スキーの寵児』の撮影も八方で行い、大谷定雄、中村実らを頼むなど細野とは既に深い緑で結ばれていた。福岡の広く深い学識、豊かで暖かい人柄、優れたスキー理論と技術は村人の尊敬を集め、提唱するスキー大会開催の要因となった。福岡を中心に「細野山岳スキー倶楽部」が軸となり区が協力し、大会実現に向けて始動したのは、終戦の年・昭和20年の12月である。細野山岳スキー倶楽部の幹部の会合が、昼となく夜となく開かれたが、会議などに経験の少ない人たちには不馴れのため進行は遅れ、まとまりも遅かった。幹部宅を順に回っての会合もあったが、夜7時の開会が、午前1時に全員が揃ってようやく開会されるなど、現代感覚では想像もできない場面がしばしばあった。最も懸念されたのは、コース開拓に伴う、立木の伐採であった。所有者を訪ね伐採を頼んでも、最初のうちは「長年月を経て大きくなった木だから切るわけにはいかない」と断られ途方に暮れながら、何回も何回も根気よく頼むうち「村のためになるのなら」と漸く承諾。かえって積極的に協力する人さえ出てきた。当時、福岡を慕って集まる者の中に学校の教員が多かった。そのつがなりから大会運営のための器具等は、学校から借りて賄った。特に計時用の「ストップウォッチ」はできるだけ多く借り集めテストの結果を見て、採用使用した。

後日、福岡が碑に刻んだ詞に「南は大町 北は小谷 相よらいて」とあるように大町スキークラブ、大町南高校や小谷の各小学校の先生が、よらって(注・協力の意)の大会となった。 「白馬山麓は大町から小谷までの人たちが協力しあって開発を進めなければならない」とは、かねてからの福岡の主張であった。

第二章 草創期に拾うエピソード

長野県スキー連盟共催とスキー列車持ち込み

太平洋戦争に突入するとすべてのスポーツは制限され、不能の種目もあったが、スキーは北方の国防上必要ということで「戦技スキー」として行われ「戦技スキー指導者」が委嘱されていた。当時は国鉄列車内にはスキーを持込めなかったが、この指導者だけには大日本体育会が証明書を発行し、持込みを許されていた。戦争が終結したものの、22年の大会開催時にはまだそのきまりが残っていて頭をかかえる心配事であった。

昭和21年秋、福岡孝行、大谷定雄の両人は、長野県庁に宇野勝房体育主事を訪ね、細野山岳スキー倶楽部が主催主管をするからと、後援を長野県スキー連盟に陳情した。偶然にも宇野主事と福岡は同じ頃学生陸上競技選手権で共に活躍した選手で、当時を語り合い、陸上競技の話に花を咲かせた。宇野主事は大会の趣旨に賛同、長野県スキー連盟の後援を快諾した。

ついで国鉄・長野管理部旅客課を訪ね、スキーの列車持込み許可の陳情をした。受付から課長に引き合わされた所、全く偶然にも藤原哲夫課長はスキー人で(後に全日本スキー連盟公認特別指導員となった)大谷とは旧知の間柄で、ここでも懐旧談に花が咲き、難問題であったスキーの列車持込みが許可された。許可証は東京、大阪、名古屋、甲府でつくり、そこへゆけば入手できると手筈をきめてくれた。2人は、松本駅前・飛騨屋旅館に1泊、細野へ引きあげたが、難問題が解決され、一気に、準備に拍車がかかることになった。それにしても、偶然とはいえ、旧知との邂逅が成功をもたらしたとは、縁につながる幸いであった。

リーゼンバッジ

優勝者へ贈るバッジ第1回大会以来続けられている権威ある賞、毎年基準タイムを定め、該当者に贈られる。 黒はAランク、青はBランク、赤はCランク

この大会の特色に、選手の所要時間を検討し、標準時間を定め、級別にバッジを授与している。上級を黒、中級を青、初級を赤色として、カモシカをデザインしたユニークなものである。誰がデザインしたか、製作の課程など資料がなく不明である。戦中時代から八方を訪れ、福岡とも親交のあった箙革明(東京岳人クラブ)は、大会創設のころ、福岡らとバッジ作製について相談会をもったが、内容などについて詳細な記憶がないと語っている。

当初大会本部の役員のとり決めは、上級から赤、青、黒の順序であったのが、何処かで取違えられ、黒、青、赤の順として手渡してしまった。第1回大会に手渡したものを変更もならず、第2回からも黒、青、赤の順で、今に変わらず定着した。出場選手はバッジを目指して奮闘し、大きな目標となって好評を得ている。第一回から止むことなく継続しその数は膨大なものとなっている。

奉納相撲に似た商品

大会を賑やかに盛りたてようと、役員は入賞者に贈る賞状、楯、賞杯のほかに、賞品を贈ることを決めた。曽て村祭りが盛大に行われた時、村の力自慢による素人相撲が神前で奉納され、勝者には優勝旗が、副賞として鍋、釜、箒、竹箒、十能など日用品が贈られた。これにならってこの大会にも日用品を贈ることが決められた。

役員幹部の中村實が賞品係の責任者となり、北城村(現白馬村)村内の商店を回り寄附を仰いで歩いた。戦後初めての大会とあって、協力者が多く、沢山の賞品が集められた。入賞して手渡しで賞品をうける選手達には戸惑いがあるなどローカル大会らしい和やかなものであった。この賞品授与は数回続いたが集めるための苦労が多いなど問題も多いため僅かな回で取止めとなった。

村中総出の応援

応援する村人(中央に北沢幸義村長が見える)

戦争によって閉ざされていた村人には、大会開催は久しぶりによみがえってきた活気であった。選手の泊る宿舎では赤飯を炊いて歓迎し、勝利を祈った。大会当日は、運動会の見物よろしく、コザを持ちご馳走を持って、家中で応援に出かけ、最もレースの見易い場所に陣取り選手への応援に励んだ。応援席は名木山周辺が多く評判の場所だった。知っている選手、わが家に泊った選手が通過すると「ガンバ!」などの声援が飛び交い賑やかな大会風景であった。

計時係の苦心

現代のような優れた電気による測定や連絡方法のなかった時代の苦心は並々ならぬものであった。(測定については別項参照)

第5回頃から数年間、国鉄保線区で使用する電話線を借用、利用したことがあった。木の枝から枝へ線を渡すのであるが、木の無い場所では雪の中に埋めるより方法がない。或る時など転倒した選手が埋めた線を切断した。レースは中断され、関門員は用意のペンチなどで修理するなど大変な苦労であった。

また、出発と決勝点での頼みは、二個の時計だけで、話しをしあう連絡方法はない。発表された成績を見て、遅く出発した選手が抜きもしないのに早く着いて、上位成績となっているとクレームが着き、選手一人ひとりに当って記録を調整したようなこともあった。次々とゴールする選手を止める方法はなし、計時をするもの、誤りを正しに走る者、記録する者、ゴール地点は騒然としたこともあった。

お叱りを受けた遅い記録発表

大会を経験したことのない村人が競技運営をするのだから苦労も多いことだった。素人集団では迅速、的確な発表ができないこともしばしばあった。特に未経験な第1回大会では、記録の発表が大変遅れてしまった。

毎日新聞社の竹節作太運動部長は後援者として臨席していたが、遅い記録発表にしびれを切らして「早くできないか」と苦み切っての一場面もあった。

細野からはその後スキー界に日本を代表する人物が輩出して、今では大会運営に事欠かず、信頼される大会となっている。

猪谷千春選手の出場

1998年、冬季オリンピック開催に日本の候補地として名乗りをあげた長野県は、これからも強い招致運動を続け、有力国との競争に勝って開催を実現したいところであるが、これの推進に重要な役割を果たしてくれているのがIOC・猪谷千春理事である。猪谷は1952年、第7回冬季オリンピック大会(コルチナダンペッツオで開催)回転競技二位に入賞した不世出ともいわれる我が国を代表するスキーの名手である。

昭和23年第2回大会に、猪谷六合雄・千春父子が出場した。父・六合雄58歳 千春17歳の時である。六合雄はスキーのために全国を回り、信州番所生活から赤城山に移って間もなくの年で著書『雪に生きる』を数年前に出版していた。千春は国内第一線級の大会で好成績を残し、天才少年とも言われ、注目を浴びていた。父は壮年組、千春は成年組に出場したが、父は優勝。千春は期待をされながら転倒14位に甘んじたが競技を終っての閉会式にはきちんと参列し、表彰をうける選手達に暖かい拍手を送っていた。その立派な態度は「あの大選手が」と関係者に深い感銘を与えた。

その時六合雄は、このコースを評して、急斜面から緩斜面への連続があり、非常に楽しめる日本の代表的なコースであると、八方尾根を激賞した。

今に残る金銭出納帳の記録簿

大会の記録を残すため記録簿に金銭出納帳が使われた。表紙は皮張りで部厚なしっかりした、当時には高額であったと思われる立派なものであった。

記録記載者は協議の結果、軍隊帰りで事務に堪能で達筆の丸山弥兵衛が決められたコースのプロフィールや成績順に選手名・所属・所要時間や、リーゼンバッジ取得者など詳細な記録が今も残っている。この皮張り記録簿は第21回から大学ノートに替わって引き継がれている。

三人の来賓

第1回大会の前夜の開会式に3人の来賓があった。宇野勝房、北沢清、竹節作太である。宇野と北沢はいずれも福岡孝行の大学時代陸上競技の知友である。

福岡孝行の陸上競技の活躍は目覚しく、学習院の中等・高等科時代、中距離ランナーとして日本陸上競技会の注目の人であった。最近一世を風靡した選手に早大の瀬古利彦がいるが、彼を指導したのは、中村清である。中村も早大在学時代中距離を走っていて、福岡とはよきライバルであり、1500メートルの日本記録は、二人のいずれかによって書き替えられると期待を持たれていた。旧制のインターハイ、インターミドルでは、800メートル、1500メートルの優勝を二人で分け合っていた仲であった。

長野県スキー連盟の理事長・宇野勝房体育主事も東京高等師範学校を代表する陸上競技投擲競技の選手であった。

北沢清も農大在学時代、陸上競技で鳴らした選手で、特に日本のスポーツ行政の要・文部省体育局長の要職を務めた要人である。開会にあたっての招待に快く応じ、わざわざ、稀有ともいえるローカル大会を私人として視察に来場した。

竹節作太は、長野県飯山中学校(現飯山北高校)から早稲田大学に学び、複合選手として第2回冬季オリンピックに日本代表として活躍した選手である。また、昭和11年(1936)立教大学山岳部が日本で初めてヒマラヤに遠征、ナンダコット峰に初登頂の成功を収めたが、遠征隊員として毎日新聞社運動部から派遣され活躍した。30歳の時である。『雲表の旅』『ナンダコット登攀』などの著書がある。

日本の体育界を治めた北沢体育局長、長野県体育の総師宇野体育主事、スキーと山の権威者竹節らの来賓はローカル大会に華を副えた。

福岡楯の由来

成年組優勝者に、福岡楯が贈られている。提唱者で創始者ともいえる福岡孝行の寄贈によるものである。

福岡は過激な練習のため病を得、陸上競技生活を断念し、スキーに道を替えたが、学生陸上競技連盟の役員としても活躍した。その折、日米対抗陸上競技大会があり、これに携わった。勝者には、日本的なものとして、日名子實三の彫刻による草薙の剣をふるう素浅鳴尊をデザインした楯を贈った。この楯は、勝者がうけたものを福岡が貰ったものである。(勝者名不明)

日名子實三(ひなこじつぞう)は明治26年(1892)大分県に生まれ彫刻家を志し、 東京美術学校(現芸大)を卒業。朝倉文夫に師事し、フランス、イタリアに留学、彫塑会で活躍。記念碑、メダルなどに独自の作風をみせ、明治神宮体育大会や各種スポーツ大会の優勝・参加費などの作品を作った。本大会の素浅鳴尊や大国主命をデザインした国引きなどの名作がある。昭和20年没した。

第三章 八方尾根リーゼンスラロームの全貌

その1

長野県知事杯

『月刊・スキーグラフィック』1984年(第四巻五号・一月号-ノースランド出版社から一部抄出転載。

長野県白馬村細野、ケーブルの山麓駅に行く途中に、古ぼけた木造家屋の細野スキークラブがある。二階の畳の部屋に金庫があり、その奥のほうにこれまた古色蒼然とした一冊の台帳が大事に保管されている。その台帳こそ、昭和22年(1947)に、第1回大会が開催された「八方尾根リーゼンスラローム大会」の今日までの記録すべてがきちんと残されている貴重な資料なのだ。

1ページ目を開いてみると、当時のコースのアウトラインが書かれてある。出発点=黒菱頭(1760メートル)、決勝点=細野部落(730メートル)、標高差=1030メートル、距離=4500メートル、平均斜度=16度、旗門=約50双旗、ちなみに女子は、出発点=清水頭(1300メートル)、決勝点=細野部落(730メートル)、標高差=570メートル、距離=2380メートル、平均斜度=15度、旗門=約25双旗と記されている。

さてここで、手元にある1980/1981シーズン、バルディゼールの男子ダウンヒルコースのアウトラインを列記してみたい。出発点=2710メートル、決勝点=1795メートル、標高差=915メートル、距離=3150メートル、関門=46とあり、ラップの選手は、このコースを2分00秒15のタイムで滑っている。もちろん、バルディゼールのコースは、FIS(国際スキー連盟)の競技規則にのっとった公認コースであることは言うまでもない。

そこで、面白いのは、八方のリーゼンスラローム大会と銘うった大回転コースが、今をときめくワールドカップ"ダウンヒル"より、すべての点で長大であったことだ。

当初、この途方もないほど長大なリーゼン大会で、選手は"どのくらいのタイムで滑ったか"というと、第1回大会の名誉ある覇者、横沢方夫さんは、5分29秒という記録を残している。ちなみに一般男子組いちばん遅かった八角太一郎さん(東芝所属とある)の記録は35分09秒とある。

が、へそのついた単板スキーの時代である。靴にしても編み上げに近い皮革製。現在とは比べものにならないほど用具は粗末なものだった。それらを考慮しても、黒菱の頭から名木山ゲレンデ麓まで、35分の所要タイムは決して遅くない。むしろ、当時のスキー競技野郎がいかに根性を入れて滑っていたかを証明するタイムといっていい。もし、嘘だと思うなら、黒菱のテッペンまで上がり、名木山まで滑ってごらん。30分以内で滑れたら、君の足前は相当なものだ。

その2

長野県スキー連盟会長杯

わが国で正式なアルペン競技が開催されたのは昭和12年(1937)のシーズンからである。また、国体スキーは昨年で36回を数える。が、スキーの正式参加は昭和23年(1947)野沢大会からであるから、八方尾根リーゼンスラローム大会のほうが、一年先輩にあたるというわけだ。

そこで、この由緒あるアルペン競技が誕生した経緯を少し触れておきたい。これは、とりもなおさず八方尾根スキー場誕生の顚末を語ることでもある。そして、その誕生秘話を紹介する上で欠かすことのできないひとりの人物がいる。白馬を心から愛し、その白馬で昨年2月亡くなられた、わが国スキー普及の先達である。

福岡孝行先生(八方尾根スキースクール名誉校長、法政大学スキー部々長、学習院大学スキー部雪桜会々長)、その人である。福岡先生こそ八方尾根スキー場生みの親であり、一方、オーストリアスキーを日本に橋渡し、その生涯の大部分をスキーとともに歩んで来られた方だ。

創設当時というものは、何事につけ苦労が多いものだ。もちろん、リーゼンスラローム大会もご多分にもれない。

第一、お米は配給であったため、選手の食事の問題やら、足の便にしても列車しかなかった時代である。しかも今では考えられないようなことだが、スキーの列車持ち込みが禁止されていたというのだから・・・。

地元運営側が大変なら、出場選手のほうも命がけだ。なにしろ、リフト、ゴンドラなど何もない時代である。当然、選手はスキーを肩に担ぎ、麓からあのはるか彼方の黒菱てっぺんまで歩くほかはない。歩かなければスタートできない。おそらく、札幌・大倉山シャンツェの階段をジャンプ用の板を担いでエッチラ登るより、はるかにシンドかったに違いない。全長4,500メートル、標高差1,030メートル、つまりリーゼン大会のコースをひたすら登るわけだ。聞くところによると、陽も明けやらぬ午前六時頃から、選手は黒菱めざして登っていったそうだ。それだけでも青息吐息なのに、なおかつ4,500メートルを一気に滑るのだから、これはもう強靭な体力と、図太い神経をもっていなければとても太刀打ちできそうにない所業である。この一点を持ってしても、昔の選手を尊敬してしまうネ。

名木山の第1リフトの完成をみたのは、大会創設四年後の昭和26年のこと。むろん、当時は第1リフトの終点からあとは歩く。名木山第3リフトの完成は昭和38年、また、ケーブルの完成は昭和33年だ。

その3

毎日新聞長野支局長杯

コースづくりは村じゅう総出、青年団から婦人会まで、全員がスコップをもってリーゼンコースにへばりついたとか。当節のポールフリークの若い諸君などは吹き出してしまうだろうが、スキー競技会に不可欠のお品、ポールにしても、当初はそのへんにある木を切って使用したというのだから、なんとも涙ぐましい。もちろん地元の人たちは大真面目だ。

日当一日5円、山岳ガイド料一日3円50銭といった頃の時代のスキー競技会である。 八方尾根リーゼンスラローム大会の例の台帳を紐解いてみる。それはまさに戦後わが国アルペン界の歴史そのものといっていい。著名なスキーヤーがキラ星のごとく台帳を飾り、いかに多くの選手が八方尾根リーゼンスラローム大会を試金石としていたか手にとるようにうかがえる。

じつは、1956年コルチナダンペッツォ冬季オリンピック・スラロームの銀メダリスト、わが猪谷千春選手はその8年前、昭和23年の第2回八方リーゼンスラローム大会に出場していたのだ。

成績をみてみよう。これが驚くことなかれ、なんと14位の低調に終わっているではないか。第2回大会の優勝者は地元細野の丸山昭男さん、タイム4分50秒。で、猪谷選手は6分24秒。8年後のシルバーメダリストは、1位に遅れること1分34秒、一体どこで道草を食っていたのだろうか。

「ウンーン、何しろだいぶ前のことなんで・・・・・、そう、第2回大会のとき、確か深い霧が出ていましてねえ。それで黒菱の下を右に行くべきところを猪谷選手は左に行ってしまったんじゃないかぁ・・・・」。記憶を呼び起こすように証言してくれたのは、地元の山崎勉さん。

その4

増田杯

猪谷千春さんがアメリカに留学したのが1952年(昭和27年)のことだ。その伝でいけば、「父(猪谷六合雄氏)がすごく厳しくて、スキーはもう英才教育って感じで物心ついてからさせられました。それからは年間100日は滑ってましたね。記憶にあるのは、ただもうスキーがいやで仕方なかったということでしょう。楽しくて、なんてスキーはできなかった。特訓、特訓の毎日」=(本誌1981年7月号「私のスキーアルバム」=談)といったスキーの青春を送った猪谷さんにとって、八方リーゼンスラローム出場は、父君にとってその仕上げだったのかも知れない・・・・・。  なお、この第2回大会には父君、猪谷六合雄さんも壮年組ただひとりのエントリーで、7分15秒で完走している。猪谷親子の所属には「群馬」とある。

スキーの団体競技といえば、まず思い浮かべるものとしては、ディスタンス(距離競技)のリレーぐらいであろう。ところが、この八方尾根リーゼンスラローム大会、つまりアルペン競技に団体部門を設けてあったのだ。むろん現在も続いている。

この団体競技は、昭和22年の第1回大会から行われている。第1回の団体優勝は、見事お膝元の細野スキークラブだ。例の台帳の記述がまた面白い。丸山昭男=5分46秒、丸山久治=6分、丸山博一=6分05秒5、丸山虎男=6分15秒、丸山晴久=6分43秒(計=30分49秒5、平均=6分09秒9)と、まあ、さすが地元の連中は強かった。足並みが揃っていたというわけだ。

以下、小谷スキークラブ、赤倉スキークラブ、大中OB、中土スキークラブ、信濃林友、東京岳人、東京芝浦電機と続いている。では、なぜ団体部門を設けたのだろうか・・・・。また、八方リーゼンの生き字引、山崎勉さんに登場願おう。

「ま、第1回の大会であることだったから、参加者をひとりでも多く集めたかった、その手段だったと思います。また、個人のほうで上位に食い込めない選手に希望を与えるといった面もありましたね。なにしろ5人集まれば、ソク団体というわけです。だから、同じ宿の人たち同士とかネ・・・・」

その5

大会長杯※この大会長杯のみ現在も使用されている

しかし、回を重ねていくうちに、後に名門スキークラブ、スキー部といったところが続々と出場し、アルペン団体競技としての面白さを例の台帳は如実に物語っている。アトランダムに団体名を挙げてみよう。二股発電所スキークラブ、大町北高スキー部、大町南高スキー部、東京スポーツマンクラブ、東京ブリリアントスキー同人、北城中学校スキー部、大町南OB、白馬スキー連盟、松本スキークラブ、東京エコースキークラブ、東鉄大井工場、KGMT、長野営林、白馬体協、ディモンズ、長野林友、乗鞍スキークラブ、国鉄長野工場、大町営林署、峡山スキークラブ、昭電大町、KENスキークラブ、日大理工、白馬ケーブル、一ツ橋大スキー部、長鉄局スキー部、独協大スキー部、以上は第23回大会までの団体の部で入賞したグループ、スキー部である。

現在も続いている名門クラブもあれば、当時、登録したグループも引き金となって、その後、クラブを設立したところもある。いずれにせよ、アルペン競技において、合計タイムを競うなどという団体競技は、この八方尾根リーゼンスラロームをおいてほかにない。また、こうした団体競技が各地の足自慢の仲間同士に大いなる刺激と発奮の起爆剤となったことは容易に想像できよう。現在のように、あらゆるスポーツを手軽に楽しめる時代でなかったこともあり、そうした心情はなおさらであったに違いない。

とにかく、これだけ長い歴史と伝統のなか、様々なスキー大好き人間がリーゼンコースを滑っていった。それだけにリーゼンスラローム大会をめぐり、こぼれ話逸話、そして自慢話にはこと欠かない。

たとえば当時、選手はどのくらいの長さのスキーをはいていたのか。聞くところによると、総じて長かったとか。2メートル5~2メートル10ぐらいが大半だったという。また、当時の選手でも柔らかな目と堅目、双方の板を持っていたそうだ。単板のスキー時代である。また、そうたやすく板を入手できる時代でもなかった。彼らが二台の板を大事そうに扱っているシーンが、目に浮かぶようだ。

その6

ところで八方尾根リーゼンスラローム大会には、当時のスキー自慢のプライドを大いにくすぐる"勲章"があった。それは、タイムによって歴然と色を分けられた。黒、青、赤のかも鹿を形どったバッジの存在。色別の基準を明示してみよう。壮年組=黒・2分30秒以内、青・2分31秒~3分、赤・3分01秒~3分30秒、40歳以上=黒・3分以内、青・3分01秒~3分30秒以内、赤・3分31秒~4分以内、女子=黒・4分以内、青・4分01秒~4分30秒以内、赤・4分31秒~5分以内、中学=黒・2分30秒以内、青・2分31秒~3分、赤・3分01秒~3分30秒、成年=黒・2分以内、青・2分~2分30秒以内、赤・2分31秒~3分以内、少年=黒・2分30秒以内、青・2分31秒~3分以内、赤・3分01秒~3分30秒以内といった具合だ。(以上の基準は第13回大会発表のもの)

もちろん、この基準は全長4,500メートル時代ではない。スタートが八方山荘の横からで、コースはおよそ3,200メートル時代に入ってからのこと。バッジの贈呈は、第1回大会からである。

そこで、このバッジの重みだが、そりゃぁ当時としたら大変なものだったらしい。ことに"黒バッジ"の重みたるや、まさに当時の足自慢仲間にあってそれこそ唾液ものであったとか。第14回大会をみても、黒バッジを獲得した選手はじつに僅かである。壮年の部3名、40歳以上の部3名、女子2名、中学生の部5名、成年組1名、少年組2名といった具合だ。

だから、黒バッジをいくつ持っているか、その数によってスキーヤーの"ハク"が決まるくらいの重みがあった。このバッジ認定は現在も続いている。

さて最後に、昨シーズン3月5、6、7日の3日間、第35回記念八方尾根リーゼンスラローム大会の模様を写真でレポートしよう。故福岡孝行先生の記念碑が見守るなか、中国からの招待選手を迎えて盛大に開催された。

選手はひたすらマイペースでゴールを目ざす。勝つというより完走する。今も昔も変わらぬ八方リーゼンの風景だ。苦しい、長い滑走が終り、ゴールに飛び込むと「ご苦労さま!」と選手の労をねぎらう飲み物が差し出される。優しい心遣いに、苦しかったレースをふっと忘れる。そして、ゴールした選手には記念バッジとタイムの入った認定証が手渡される。

「俺は、八方のリーゼンを完走したんだ!」。選手はみな同じ思いだ。 本格派からパラシュートを開いてゴールする冗談派まで、様々なポール大好き人間が八方リーゼンに集い、競い合う。その歴史、コース、約1000名の参加者、どれをとっても日本一、いや世界に比類のないアルペン競技会である。八方尾根リーゼンスラロームは、福岡先生の遺志を継ぎ永遠に不滅である。

細野スキークラブ(株式会社スカイパーク八方) 平成元年11月発行の60年史より